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自分の過去を振り返り、キーティングのような教師に出会えなかったことを悔いてはいけない 「いまを生きる」(89’)

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公開:1989年

監督:ピーター・ウィアー

脚本:トム・シュルマン

製作 :スティーヴン・ハーフ
   ポール・ユンガー・ウィット
   トニー・トーマス

 

 


全寮制のエリート男子校。将来を期待される若者たちが新学期を迎える。

規則と伝統を重んじる学校で、生徒たちは新任教師のキーティングと出会う。

 

チャペルで仰々しい礼拝が行われ、新学期が始まる。親たちは別れを惜しみ、我が子に期待の言葉をかけ、子供たちは同級生と休暇明けの再開を喜ぶ。登場する生徒たちは、みな優等生で育ちの良さが伺える。彼らは親の期待に応えることに全力を注ぐのだ。親に課外活動を辞めるように言われれば、それに反抗できない。しかし彼らは、そこまで鬱屈しているようには見えない。厳しい規則の抑圧の中でも、彼らは友達とふざけあったり、隠れてタバコを吸ったり、それなりに楽しんでいるに見える。

この映画を見ながら、誰もが自分の学生時代を振り返るだろう。家庭と学校からの抑圧、それらと折り合いをつけながら生きていた。私も、映画の中の若者と同じように、親や教師たちには逆らえず、しかしながら、それなりには楽しんでいた。

 

そんな中、新任の国語教師キーティングがやってくる。初めての授業、キーティングは教室を飛び出し、生徒たちを記念展示室に連れていく。ロバート・ヘリックの詩「薔薇のつぼみを摘むのなら」を読み、生徒たちにささやく。「今を生きろ」と。キーティングの授業は、他の教師のものとは全く違った。生徒たちに教えるのは、知識ではなく「自由な思想家たれ」ということだった。キーティングは教科書の序文のページを破れと言う。「クソくらえだ。詩は数値で表せるものではない。」生徒たちは、困惑しながらも興奮してページを破りすてる。

 

生徒たちは、キーティングの教えに夢中になっていく。キーティングの魅力に説得があるのは、決してすべての生徒が彼に心酔するわけではないということだ。最後の場面でも、決して教室のすべてのものが、立ち上がるわけではない。もし、キーティングのカリスマをもう少し過剰に描いていたら、そこまで感情移入できなかったかもしれない。

 

キーティングに魅せられた生徒たちは、学生時代のキーティングが開いていた「死せる詩人の会」を復活させる。夜な夜な集まっては、自作の詩を朗読する。彼らは自分の言葉を獲得していく。そして、生徒たちはどんどん新しい世界に踏み出していく。ある者は恋をし、ある者は芝居に目覚める。

 

しかし、キーティングと生徒たちに学校と親たちが立ちはだかる。悲劇が起こってしまう。芝居に夢中になっていた生徒ニールが自殺をしてしまう。彼は、親の反対を押し切れず、かといって芝居をあきらめることもできなかった。反抗することも、従うことも出来ず、彼は自ら人生の幕を閉じてしまったのだ。キーティングに責任が押し付けられた。生徒たちにもキーティングの責任を認めるように迫られた。結局、キーティングは学校から追放されることになってしまった。生徒たちは、自分の将来を棒に振る選択は出来なかった。それも無理はない。学校側にすべてを打ち明けた生徒が言うように、キーティングを救うことは出来ないが、自分を救うことは出来るのだ。しかし、最後の最後で、彼らは利害や損得を超えた勇気を示した。けっして大それた行動ではないかもしれない。しかし、彼らのなけなしの偉大な勇気を涙なしには見ることは出来ない。

 

どうしても考えてしまう。「もし、自分の学生時代にキーティングのような教師がいれば、どんなによかっただろう。」しかし、この映画に感動したならば、自分の過去を振り返り、キーティングのような教師に出会えなかったことを悔いてはいけない。この作品の中からキーティングは私たちにも語りかけてくれているのだ。