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これは「クレヨンしんちゃん映画」ではなく「野原ひろし映画」だ!『クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』

 

「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」の画像検索結果

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いやー、良かった!

久しぶりにクレヨンしんちゃんの映画を見ました。

こんなに楽しめるとは思っていなかったので、とても嬉しい気持ちです。

 

調べてみると、クレヨンしんちゃんの映画は全部で25作あるようですが、僕が観ているのは6作品だけでした。

名作と言われている『オトナ帝国の逆襲』『戦国大合戦』あたりは観ていましたが、今回観た『逆襲のロボとーちゃん』、これまで観た作品の中で一番好きなクレヨンしんちゃん映画になりました。

 

と、いうよりこの作品「クレヨンしんちゃん映画」ではなく、「野原ひろし映画」だと思いました。

というのも、この映画で言及されるのは「あるべき父親像」なんですね。

作中の敵役の行動原理がテーマを端的に表しています。「とにかく強く、家父長的な態度が、あるべき父親像だ」といのが敵の言い分なんですね。

これ、ひどい言い分だと思うかもしれませんが、普遍的な考えでもあると思います。現に日本でもそういう時代がありました。ただ、こういう考えが良くないのは「弱者を力で押さえつける」ようになるからですよね。

 

一方、ロボとーちゃんがその真逆で、彼は常に「家族を守るのが父親だ」といって行動するのです。家族のための文字通り自己犠牲。対比がある分、すごく泣けます。最後の展開はロボとーちゃんの風体もあってさながら『ターミネーター2』のようでした。

あと、敵役にも同情的な作りになっているところがいいバランスでしたね。

 

子供も大人も万人が楽しめる、エンターテインメント作品でありながら、説教臭くなく深いテーマを織り込んだ素晴らしい作品だと思います。

 

 

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予告編だけでも十分かも『スイス・アーミー・マン』

 『スイス・アーミー・マン

 

youtu.be

劇場で予告編を見て、こんなに笑ったことないくらい笑ったので、これは絶対見に行こうと決めていました。

 

さて、実際に鑑賞したところ、、、

予告編以上の面白さは無いと思いました。

というより笑いどころを予告編にすべて詰め込んでしまったという感じで、その点残念でしたね。

 

ただ、素晴らしかった点がいくつかありました。

まず音楽ですね。

音楽はアンディー・ハルとロバート・マクダウェルという方だそうです。サントラも劇中歌もどれもセンスがいい。主人公ハンクの鼻歌が、その直後に音楽として流れるという流れも良かったです。音楽に関してホームページの記載を引用しておきます。

 

 

 アンディー・ハルとロバート・マクダウェルは、2004年に結成したインディー・ロック・バンド「マンチェスター・オーケストラ」として活動している。アンディーはリードギター兼シンガーソングライター、ロバートはリズムギターを担当。その他のメンバーは、ベースのティム・ベリーとベースのアンディ・プリンス。アンディーはバンド活動の傍らテレビやゲームなどのサウンドトラックにも参加している。本作のサウンドトラックはアンディーとロバートの二人で手掛け、ほぼすべての楽曲がダニエル・ラドクリフポール・ダノ、アンディー・ハルの声といくつかの楽器で作られている。アンディーは劇中にカメラマン役としても出演している。

 

 

そして、なにより主役2人の演技は良かったです。

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このダニエル・ラドクリフ、いい顔してますね~。こういう役をやるのは、すごく好感がもてますし、いままでの中で最もハマり役だったと思います。

 

いい点を述べてきましたが、やはり劇中通して行われる主人公ふたりの会話はよく分かりませんでした。鑑賞中も理解しようと考えていたのですが、結局最後まで分からず、感動っぽい場面でもポカーンとしていました。

今もまだ咀嚼しきれていないという感じです。

この点については、いろいろな方がレビーを書いているので、納得できる答えを探すのもいいかと思います。

 

ただ、自分としては予告編を超える本編ではなかったいう印象でした。

先ほど、書いた良かった点もすべて予告編に含まれてますからね。

 

予告編で十分楽しめると思います。

 

 

新作映画レビュー『ドリーム』は万人のロールモデルだ!

 

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まず結論からいって、とてもポジティブないい作品でした。「抑圧されても誇りを失わない。そして知識とポジティブさによって状況を打破する」という、とてもまっとうに理知的に勇気を与えてくれる作品だと思います。

監督は『ヴィンセントが教えてくれたこと』のセオドア・メルフィ。監督としては本作で2作目なんですね。前作『ヴィンセントが教えてくれたこと』も良作でしたが、今回の『ドリーム』は『ラ・ラ・ランド』の興行収入を上回ったとあって、万人に勧められる秀作だと思います。以下、ネタバレも少々含みつつレビューを書いてまいります。

 

☞『ドリーム』の時代背景~国外では冷戦、国内では人種闘争の時代~

60年代、そして黒人といえば、すぐ思い当たるのは「公民権運動」でしょう。しかし、同時に60年代は米ソ冷戦、とりわけ宇宙開発競争の時代でもありました。1957年のソ連は世界初の人工衛星スプートニクの打ち上げを成功させ、そこから競争がはじまるわけですが、この映画で描かれるのは、1961年にソ連が人類初の有人宇宙旅行、地球周回軌道飛行に成功させてから、1962年にアメリカが地球周回軌道飛行を成功させるまでなんですね。

この時代の黒人の境遇といえば「隔離すれど平等」といって、あらゆる公共施設、作中でも出てくる学校、トイレなども、白人と有色人種で区別されていました。ちなみに公民権が成立し、そういった差別が禁止されるのが1964年ですから、この作品は黒人が権利を主張している真っ只中の時期であり、主張するがゆえに押さえつけも厳しくなっていた時期でした。

まず、この作品の最初のつかみになっているのが、「黒人女性がNASAで働いていた」という知られざる事実ではないでしょうか。当然、私も知りませんでしたし、多くの人もそうなんじゃないかと思います。ゆえに原題「Hidden Figures」すなわち「隠された人々」というタイトルはセンセーショナルな響きを持っているのですが、一方の邦題「ドリーム」はいまいちですね。もともと公開前に日本題に関して、ひと悶着あり話題になりました。

www.itmedia.co.jp

「ドリーム 私たちのアポロ計画」にならなくてよかったと心底思いますが、原題の響きが好きな自分としては、多少馴染みがなくても原題のままで公開してほしかったと思います。

 

 

☞立ち向かう女性たち

 本作では、NASAで計算を任される女性たち、その中の3人の女性が主役です。彼女たちは飛び級で大学に入り、学位を得た天才でした。作中では、すでにNASAで働いているところから始まりますが、この3人ともNASAに務める前は教師をしていたそうです。人並み外れた頭脳があるにも関わらず、人種差別ゆえに能力を十分に活かす職に就けなかったのです。ただ、NASAに務めているからといって彼女たちの境遇が恵まれたものとは決して言えません。職場は、明らかに小汚く狭いところに閉じ込められていますし、給料も安く、管理職になれないというシーンが出てきます。さらに彼女たちは、人種差別だけでなく性別によっても差別されます。辛いのは、働く女性ゆえに黒人の男性からも偏見を向けられてしまうところですね。ただ、だからといって本作は決して暗く重い作品ではありません。というのも、彼女たちが自分に誇りをもっていて、とても堂々としているんですね。そして常に立ち向かっていくんです。例えば、キャサリンが後に恋にする軍人の彼と話している時に、彼がつい「女なのに、、」といった悪気のない偏見にみちたことを彼女に言ってしまうのですが、その時キャサリンはとっても毅然と反論します。見ているこちらもグズグズさせない態度といいますか。見ている方が喝采を送りながらも励まされてしまうんです。

「hidden figures」の画像検索結果 ※右からドロシー、キャサリン、メアリー

 

 ☞壁を打破する「ポジティブさ」

物語の中で彼女たちはそれぞれに壁にぶつかっていきます。まずメアリー。メアリーは登場人物のなかでも特におしゃれで、皮肉屋で魅力的な人ですね。

彼女はNASAのエンジニアになるべく学校の講義を受けようとするのですが、黒人のため入学が認められません。作中で、差別する側の多くの白人が言うのが「そういう規則だから」とか「面倒をおこすな」ってことなんですね。そこで彼女は裁判を起こすのですが、そこで彼女は裁判官に対して「前例がないなら、あなたが前例を作れば、歴史は変わるわ」というんですね。これには心の中で大喝采でした。彼女たちは堂々と立ち向かって壁を破っていくんですね。

 

 

☞人種・性別ではなく能力を評価してくれる人

登場人物の中で、彼女たちをちゃんと評価してくれる人もいます。キャサリンの上司アル(ケビン・コスナー)と宇宙飛行士のジョン・グレン(グレン・パウエル)の二人ですね。彼らに共通するのは、目的を達成することを最重要視している点ですね。周りの人間がキャサリンを「黒人」「女性」として見ているのに対して、彼ら二人は「マーキュリー計画を成し遂げるために必要な人間」であると見ているわけです。偏見や差別などありません。そのため、彼らがらみのシーンはとても気持ちいいですね。キャサリンはこの二人の存在もあり、存分に能力を発揮させていきます。余談ですが、ジョン・グレンを演じるグレン・パウエルはリチャード・リンクレイター監督の『エブリバディ・ウォンツ・サム』でフィネガンを演じていた方です。私はフィネガンが好きで好きでたまらなかったので、今回グレン・パウエルが登場した時にはめちゃくちゃテンションがあがりましたね。役柄は全然異なりますが、両方ともとにかくナイスガイで、「一緒に酒飲みてぇ」と思わせられるんですね。パンフレットによると彼は「今ハリウッドで最も期待される俳優」らしく、我がことのように嬉しかったですね。

 

f:id:tikyuugi:20171005181919p:plainジョン・グレンを演じるグレン・パウエル

 

☞万人に勧められる理由

この作品の背景には「人種差別」「女性差別」「冷戦構造」といったヘビーな状況がありますが、この作品のテーマは、あくまで彼女たちひとりひとりの「個人」の勇敢な生き方です。たとえ取り巻く状況が違えど、彼女たちの立ち向かっていく姿勢が私たちのロールモデルになりうると思います。

 

 

 

自分の過去を振り返り、キーティングのような教師に出会えなかったことを悔いてはいけない 「いまを生きる」(89’)

「いまを生きる」の画像検索結果

公開:1989年

監督:ピーター・ウィアー

脚本:トム・シュルマン

製作 :スティーヴン・ハーフ
   ポール・ユンガー・ウィット
   トニー・トーマス

 

 


全寮制のエリート男子校。将来を期待される若者たちが新学期を迎える。

規則と伝統を重んじる学校で、生徒たちは新任教師のキーティングと出会う。

 

チャペルで仰々しい礼拝が行われ、新学期が始まる。親たちは別れを惜しみ、我が子に期待の言葉をかけ、子供たちは同級生と休暇明けの再開を喜ぶ。登場する生徒たちは、みな優等生で育ちの良さが伺える。彼らは親の期待に応えることに全力を注ぐのだ。親に課外活動を辞めるように言われれば、それに反抗できない。しかし彼らは、そこまで鬱屈しているようには見えない。厳しい規則の抑圧の中でも、彼らは友達とふざけあったり、隠れてタバコを吸ったり、それなりに楽しんでいるに見える。

この映画を見ながら、誰もが自分の学生時代を振り返るだろう。家庭と学校からの抑圧、それらと折り合いをつけながら生きていた。私も、映画の中の若者と同じように、親や教師たちには逆らえず、しかしながら、それなりには楽しんでいた。

 

そんな中、新任の国語教師キーティングがやってくる。初めての授業、キーティングは教室を飛び出し、生徒たちを記念展示室に連れていく。ロバート・ヘリックの詩「薔薇のつぼみを摘むのなら」を読み、生徒たちにささやく。「今を生きろ」と。キーティングの授業は、他の教師のものとは全く違った。生徒たちに教えるのは、知識ではなく「自由な思想家たれ」ということだった。キーティングは教科書の序文のページを破れと言う。「クソくらえだ。詩は数値で表せるものではない。」生徒たちは、困惑しながらも興奮してページを破りすてる。

 

生徒たちは、キーティングの教えに夢中になっていく。キーティングの魅力に説得があるのは、決してすべての生徒が彼に心酔するわけではないということだ。最後の場面でも、決して教室のすべてのものが、立ち上がるわけではない。もし、キーティングのカリスマをもう少し過剰に描いていたら、そこまで感情移入できなかったかもしれない。

 

キーティングに魅せられた生徒たちは、学生時代のキーティングが開いていた「死せる詩人の会」を復活させる。夜な夜な集まっては、自作の詩を朗読する。彼らは自分の言葉を獲得していく。そして、生徒たちはどんどん新しい世界に踏み出していく。ある者は恋をし、ある者は芝居に目覚める。

 

しかし、キーティングと生徒たちに学校と親たちが立ちはだかる。悲劇が起こってしまう。芝居に夢中になっていた生徒ニールが自殺をしてしまう。彼は、親の反対を押し切れず、かといって芝居をあきらめることもできなかった。反抗することも、従うことも出来ず、彼は自ら人生の幕を閉じてしまったのだ。キーティングに責任が押し付けられた。生徒たちにもキーティングの責任を認めるように迫られた。結局、キーティングは学校から追放されることになってしまった。生徒たちは、自分の将来を棒に振る選択は出来なかった。それも無理はない。学校側にすべてを打ち明けた生徒が言うように、キーティングを救うことは出来ないが、自分を救うことは出来るのだ。しかし、最後の最後で、彼らは利害や損得を超えた勇気を示した。けっして大それた行動ではないかもしれない。しかし、彼らのなけなしの偉大な勇気を涙なしには見ることは出来ない。

 

どうしても考えてしまう。「もし、自分の学生時代にキーティングのような教師がいれば、どんなによかっただろう。」しかし、この映画に感動したならば、自分の過去を振り返り、キーティングのような教師に出会えなかったことを悔いてはいけない。この作品の中からキーティングは私たちにも語りかけてくれているのだ。

孤独な男「タクシードライバー」

 

 

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公開:1976年

監督:マーティン・スコセッシ

制作:マイケル・フィリップス

     ジュリア・フィリップス

脚本:ポール・シュナイダー

音楽:バーナード・ハーマン

 

☞眠れない男

ラヴィス。彼の独白からこの物語は始まります。

不眠症の彼は、夜勤のタクシードライバーの職につきます。

彼は街ゆく人々に対し、憎しみの心情を吐き出します。

「夜、歩き回るクズは、売春婦、街娼、ヤクザ、ホモ、オカマ、麻薬売人、すべて悪だ。奴らを根こそぎ洗い流す雨はいつ降るんだ?」

 

人が溢れる都会の街が、彼の孤独を際立たせます。そして彼の乗るタクシーもまた閉じられた彼の世界を象徴しています。夜通し働いても彼は眠ることができません。ガレージからポルノ劇場に直行し、劇場の女の子には冷たくあしらわれてしまいます。

「毎日過ぎていくが、終わりはない。俺の人生に必要なのはきっかけだ。自分の殻だけにとじこもり、一生過ごすのはバカげてる。人並みに生きるべきだ。」

そんな彼に人生を変える「きっかけ」が現れます。 

 

☞トラヴィスの恋

ある日、トラヴィスは街の選挙事務所で見かけた女性ベツィに一目ぼれします。

彼はボランティアの申し出を口実に、選挙事務所のベツィに押しかけます。

会話の中で、トラヴィスが政治に関する質問に全く答えられず、ヤケになって開き直る展開が笑わせます。

懸命に彼女を口説きます。「君は独りぼっちだ。君の周りにたくさん人はいて、電話や書類で一杯だが何の意味もない。君に必要なのは友達だよ。」

ジェントルな態度を保ちながらも、言っていることは非礼極まりないですね。彼女の仕事や周りの人をさげすみ、必要なのは自分だと言いたいのです。

ちょっとこの辺りから、彼の狂気の片りんが見えています。

というのも、一貫して彼の言動には、相手に対する想像力が欠落しているからです。

 

ラヴィスは彼女を喫茶店に誘い出します。

ここでの会話が全くかみ合っていません。トラヴィスの「痛さ」全開です。

ラヴィスは選挙活動について知った風に語りますが、言葉を間違えて使い、彼女に訂正される始末。

そんな彼に対し、ベツィは皮肉をいいますが、彼にはその皮肉も理解できません。

 

さらにトラヴィスは彼女を映画に誘いますが、彼は決定的な事をしでかします。

ラヴィスは彼女をポルノ映画に連れていってしまうのです。

当然、彼女は怒って帰ってしまいます。

必死の弁解しているようで「君は働きすぎなんだよ。」とベツィに責任転嫁しています。

ベツィから完全に無視されてしまい、トラヴィスは選挙事務所に乗り込み、彼女を罵倒し呪詛の言葉を吐き散らします。

 

思えば、これまでのトラヴィスにはまだ同情の余地がありました。社会から疎外感を感じ、孤独にさいなまれることは誰でもあることだと思います。それに過剰な自意識ゆえ、他者に対し想像力が持てず、上手くコミュニケーションとれないことは、けっして他人事ではありません。しかし、ここでトラヴィスが彼女を憎しみだしたことは、多くの観客の同情も遠ざけてしまったと思います。観客もここからトラヴィスについていけなくなります。つまり、ここでトラヴィスは外の世界と決別したといえます。

結局、トラヴィスにとってベツィは人生を最悪の方向に変える「きっかけ」になってしまいました。

ラヴィスの狂気は暴走します。

 

☞トラヴィス銃をとる

ラヴィスは銃を購入します。

ラヴィスは日記のなかで、「また人生のなかで転機がきた」と述べています。

すでに多くの評論で言い尽くされていると思いますが、彼が銃を手にとることは非常に象徴的です。トラヴィスは作中通して、「不能(セックスが出来ない)」であることが示され、銃は「男性性」のメタファーとして機能します。彼にとって銃を撃つことはセックスの代償行為なのです。

 

彼は憎むべき社会を変えようと考えます。

「よく聞けボンクラども。もうこれ以上我慢できん。あらゆる悪徳と不正に立ち向かう男がいる。この俺さ。」 

彼は大統領候補の暗殺を企てます。また、彼は、売春をする少女アイリスを助け出そうとします。しかし、彼はアイリスに対しても、想像力を持ち合わせず、一方的に良識らしきものを説いて、家に帰るよう説得します。アイリスからも笑われてしまいます。「おかしいのは私とあなたのどっち?」

 

ラヴィスは大統領候補の集会にモヒカン頭で現れます。しかしこれは直前でバレて、未遂に終わります。そのまま彼はタクシーを走らせ、向かった先はアイリスのいる娼館でした。トラヴィスは娼館に突撃し、次々とポン引きたちを撃ち殺します。

凄惨なシーンですが、このシーン全体の色調が暗くなっています。血の色も目立ちません。というのもR指定を免れるために、彩度を減らしたそうです。

泣き叫ぶアイリスを横に、全員を撃ち殺します。最後に彼は自殺を図りますが、弾は切れていました。彼は手を銃の形にし、自らの頭に撃つつけ意識を失います。

 

☞恐ろしい結末

ラヴィスは生き延びてしまいました。

彼の部屋には彼を称える新聞が貼られ、アイリスの両親からの感謝の手紙が読み上げられます。そして彼はタクシーに乗り続けます。 

 

さて、自分は当初この作品の結末が、どうして納得できませんでした。

なぜトラヴィスが死なかったのかが不可解でした。英雄になったことも同様です。それはこの作品は「孤独をこじらせることへの警鐘」を鳴らす作品だととらえていたためです。そのメッセージはトラヴィスが生き続け英雄になってしまうと、かなりぼやけてしまうと感じたのです。

そのため長い間「トラヴィスは死ななければならなかった」と思っていました。

それがこの記事を書いた動機でもあります。

 

 

しかし、考えをまとめている間に、実は、この結末こそ、最も恐ろしいのではないかと思うようになりました。

 死ねばすべてはそこで終わりますが、生きている限り彼は肥大化した自我と向き合い続けなければいけません。また彼が英雄になったことで、彼は誤った自己実現をしていまいました。このまま異常な自我を抱えたまま、まっとうに生きていくことができるとは考えづらいです。彼はさらなる修羅の道を歩まずにはいられないでしょう。

 監督のスコセッシは、その後のトラヴィスについてこのように述べています。「彼はいつ爆発するかわからない時限爆弾だ。」彼がいずれ身を滅ぼしてしまうことを暗示しています。